ひのひなどりから

主に宝塚について。それ以外のことも書くかもしれません。

雪組公演fff 色々情報を仕入れての覚え書き<その1>

以前初見段階での解釈や疑問点を書いたんですが↓、

雪組公演fff 初見&脚本読了後時点での解釈と疑問点 - ひのひなどりから

それからググったり本読んだりしてはぁ~なるほどなぁ~と思ったことが色々あったので、感想と覚え書き。

 

www.heibonsha.co.jp

 

まずこの本が大当たりだったのでオススメ。
これは2018年出版ですが、2009年に出版された物の再刊だそうです。
ロマン・ロラン著の古い伝記の邦題と同じタイトルなので紛らわしいですが、全く別の本です。

読んでる間、上田先生絶対この本読んだんだろうな…と何度も思いました(笑)
かなり有名どころの本のようなので、実際読んでらっしゃるのではないかと。

例えば下記のような記述。

1815年10月19日付のエルデーディ夫人への手紙には、そうした彼の心情がうかがえる。
「無限の精神の体現者でありながら有限の存在である私たちは、苦悩と歓喜の両方を耐えるべく生まれついているのです。そして私たちにとって最善のことは、苦悩を通じて歓喜をかちうることだと申しても良いでしょう」
この「苦悩を通じて歓喜へ」という言葉は、のちにベートーヴェンの名文句として広く知られるようになったが、初出はこれである。

「苦悩を通じて歓喜へ」という名文句は昔から有名なようですが、他にもfffのベートーヴェン像に通ずるエピソードや著者の推察をたくさん拝見できて面白かったです。

素人目ではありますが、内容も信頼のおけるものだと感じました。
伝記には(著者の意図に関わらず)誇張や誤りが付きものですが、そういったことを極力排除し、正しいベートーヴェンの姿を伝えようと尽力された著者の姿勢が伺えます。

その上で、著者のベートーヴェン愛が感じられるのも読んでいて気持ちよかったです。
当時のヨーロッパ情勢なども書いてくれていて、詳しくない人間には有り難かった。

 

あと、fffの世界と照らし合わせると滾る~!!と特に思った点をいくつか。
今本が手元にないので、引用や内容に誤りがあったらすみません。

<ルドルフ大公について>

若い世代には、ベートーヴェンは最も魅力的な音楽家だった。その一例が、この年に作品(ピオノ協奏曲第四番)をはじめて献呈されているルドルフ大公である。現皇帝の異父弟で当時18歳、本来なら軍務につくべきところだが、病弱傾向だったため僧職を運命づけられていた。幼い頃から音楽の才に恵まれ、15歳の頃、自分から選んでベートーヴェンを師としている。温厚な性格であったらしく、気まぐれなところもあるベートーヴェンと一度も対立することなく、終生パトロンとなって傑作の数々を贈られている。 

夢広がる・・・めっちゃ夢広がる・・・。

  • 弟子をとることが稀になっていたベートーヴェンが、積極的に弟子にしたのがツェルニーとリース、ルドルフ大公だった。
  • ベートーヴェンがウィーンの音楽界を見限って外国へ行ってしまわないよう、ウィーンに留まることを条件に多額の年金を出されていて、その出資者の一人がルドルフ大公だった。
  • ナポレオン軍の脅威にさらされ、ウィーンから出発する皇族一族につきそったルドルフ大公に贈ろうとして「ピアノ・ソナタ第二十六番<告別>」が書き始められた。
  • ↑に対して、”おそらく若い大公は、ウィーンに残る師の身を案じて、年金の先払いなどの配慮をしてくれたのではないだろうか。”という著者は推察している。
    その御礼として曲を献呈しようと思ったわけですね。
  • 晩年の大曲「ミサ・ソレムニス」は、オルミュッツの大司教に任ぜられたルドルフ大公の叙任式のために書かれている。(実際は力を入れすぎて叙任式には間に合わなかった。)
  • ↑はただの機会音楽ではなく、重い不調から回復したベートーヴェン”苦難の淵から救われたものの神への感謝の歌を、生涯の総決算として書き遺したいと考えたに違いない。すでに『日記』の十八年の頁に、教会音楽への強い関心がしるされており、これが彼の「ミサ・ソレムニス」(作品123)の最初の動機と考えられている。”と著者は推察している。
    その通りなら、ルドルフ大公は生涯の総決算の曲を献呈するに値する相手だったわけですよね。。

fffのストーリー上だと弟子としての姿は描かれておらず、大公はほぼ常に皇室ファミリー+メッテルニヒと行動を共にしているのでルイはツンケンしていますが、
人間としての大公とは良い関係を築けていたのかなぁと夢広がります。

望海ルイにピアノ教わってるあやな大公とかめちゃくちゃ見たいな・・・。

 

あとメッテルニヒ体制において、

1802年には、当時の警視総監セドルニツキー伯爵が、彼を逮捕すべきかどうかを皇帝に物申している。それが見送られたのは、第一に、ベートーヴェン自身が持っていた全ヨーロッパ的な名声だった。
~中略~

またベートーヴェンは、長年にわたるルドルフ大公の音楽の師であった。大公は現皇帝の異母弟の上、当時オルミュッツの大司教だった。しかも、その大公のためにちょうどその頃ベートーヴェンは「ミサ・ソレムニス」を作曲中であった。
けっきょく当局は、ベートーヴェンの言動を十分把握してはいたが、それを奇人変人のたわ言として処理することを選んだものと思われる。

というのがあって、ある意味ルイはルドルフ大公にも守られていたんだなと。

 

<ブロイニング家について>

これまでしつけをおろそかにされてきたルートヴィヒに、ブロイニング夫人は、食事のマナーや服装などについても小まめに注意を与えたが、強情な所もある彼も夫人の言葉なら素直に聴くことができた。後年彼は、「夫人のお小言」をなつかしく回想している。

ほ、微笑ましい~~~!!
史実ではブロイニング家に住んでいたわけではなく、頻繁に通っていたくらいのようですが、
fffの流れではしばらく住む流れなので、ますます微笑ましいですね。
愛すみれ夫人にナイフとフォークの持ち方直されたり、服装が乱れてるのを注意されるひまり少年ルイ。子供扱いされてちょっと不服でも強く言い返せない青年ルイ。良い。。

 

あと、fffではロールヘンの妹がいますが、実際は弟が3人だったんですね。

ベートヴェンはロールヘンと末っ子のローレンツにピアノを教えていて、
次男のシュテファンとは同じ先生からヴァイオリンを習う親しい仲になったとか。

 

それから、史実ではロールヘンはお産で亡くなるということもなく、ルイがボンへ帰ったこともないようです。
逆にゲルハルトとロールヘンが、ナポレオン軍から逃れるために一時期ウィーンに滞在していたとか。

また、シュテファンの息子はゲルハルトという名前で!
ベートーヴェンは晩年シュテファン家の近くに住んでいて、このゲルハルト少年をとても可愛がって「アリエル」と呼んでおり、
ゲルハルト少年もベートーヴェンを慕って、体調を崩していている彼の家にしょっちゅうお遣いに来たり、一緒に散歩したりしていたとか。

fffの世界だとシュテファンはいないのでゲルハルト少年もいませんが、
ベートーヴェンはそもそも結構子供好きだったらしく、子供好きの望海ルイを想像すると微笑ましい。

 

メッテルニヒについて>

ザント事件のような危険な「テロ」を「未然に防ぐ」ためと称して、反体制的な言論や出版の自由への容赦ない弾圧に乗り出したのだった。事件の五ヶ月後には「カールスバート議定書」なるものを交付して、これが長くヨーロッパを、悪名高い「ウィーン体制」の許に置くことになった。その結果、新聞や雑誌をはじめ、芝居やオペラの台本にまで及ぶきびしい検閲、反体制派と見られた教授たちの追放、詩人や作家の監視や拘束、はては個人の私信までもが検閲の対象となった。また当時のウィーンには、正規のスパイが七千人ないし一万人も配置されていたが、秘密警察はそれ以外に、多くの馭者、ボーイ、従者、娼婦などにも情報の提供を求めていたという。まさに密告社会である。

「私の警察組織を甘く見ないほうがいい」の台詞が深みを増しますね。。
密告社会というと東ドイツのイメージがありましたが、この時代、この場所もそんな感じだったんですね。

 

ゲーテについて>

まず、ベートーヴェンは昔からゲーテを大尊敬していましたが、ある時ゲーテと親しくしている女性と知り合い、彼女から紹介してもらったそうですね。

ゲーテは保養のために、ボヘミアには毎年数ヶ月間滞在していたそうで。
ベートーヴェンは当時から体調を崩しがちだったので、ボヘミアなら保養地だから医者も賛成するだろうという算段のもと、実際はゲーテに会いたくてボヘミアへ行ったけれども、はじめの年は時期が会わなくて会えなかったのだとか。
あわよくば推しに会いたいファンの行動に近いものを感じる。。

翌年、ベートーヴェンゲーテと対面して話す前に、オーストリア皇帝夫妻を接待する彼を見ていたらしいんですね。それで、あまりにも普通の宮廷人らしい姿に幻滅したのかもしれない、と。

その後ゲーテの方から宿を訪ねてきて、ベートーヴェンをひどく気に入り、毎日のように一緒に出掛けたが、ベートーヴェンゲーテの宮廷人としての構えを崩してやろうと、あえて憎まれ口を聴いたり無礼な態度をとる。そんな彼をゲーテは寛大に許している。

それから諸々の経緯があって、ゲーテが本心から自分を評価してくれていると知ったベートーヴェンは、ウィーンに帰る前に自らゲーテの許を訪ねている。

「レオノーレ」の最初の版のナレーションに「兄のようなゲーテとしてその言葉を取り入れるほど心を寄せていた、とのこと。

 

fffでのゲーテとの和解は「本当に書きたかったもの」を見つけたことで表されているんですよね。
面と向かっての芝居では幻滅して終わってしまうので(笑)、史実ではこういうことがあったと知って想像が膨らみました。

 

<その他もろもろ>

当時は貴族のサロンで演奏することが多く、ラズモフスキー宮殿ではお抱えの弦楽四重奏団ベートーヴェンが曲を書き、一緒に演奏していたりもしていたと。
四重奏団の中に仲の良い音楽仲間もいて、ラズモフスキー伯爵自身も音楽家であり、しょっちゅう宮殿に通って、充実した時間を過ごしていたそうで。
ところが1814年、ウィーン会議の夜会のために会場を提供していたラズモフスキー宮殿が、火災で消失。
弦楽四重奏団も解散され、ウィーンを去った音楽仲間もいたのだとか。

 

fffでウィーン会議というとあのシーンじゃないですか…あの辛いシーンの前後にそんなことが…?と思うと更に辛い。。

 

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ベートーヴェンは、ナポレオンについて知人にこう話したとのこと。

「私が音楽の技法と同じくらい戦術を知らないのは残念だ。私は彼を打ち負かしただろうに!」

"最後のピアノ協奏曲「皇帝」はエロイカの系譜に属しているが、フランス皇帝となったナポレオンに対して、自らを音楽の世界の皇帝として対峙させていたのではないか。"と著者は推察しています。めっちゃfffみがある。。

 

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ベートーヴェンはとても自然を愛していて、自然の中を散歩してインスピレーションを得ることもしょっちゅうだったそうです。
他人の目から見ても、こんなに自然を愛する人には出会ったことがない、と語られたくらいなのだとか。

そして実は結構社交的ではありながら、感情の起伏が激しく、人と衝突することもしばしば。
耳が聞こえなくなってからは、それが原因になった部分は多々あるのでしょうが。

 

芸術と学問を愛し、自然を愛し、社交的だけれど気難しいところもあり、感情の起伏が激しい・・・というのが、
まるでウェルテルのようだなと。二人の重なりが一層増して感じられました。

 

 

 

意外と長くなってしまったので、この記事はひとまずこれ1冊で!
おお!と思う部分が山程あって、上記はほんの一部です。

歴史も、後になって新事実が発覚したり、従来の説に矛盾点が見つかったり…ということがあるので、やっぱり新しく書かれたものの方が良いんだろうなと読みながら改めて感じました。

この本ももう10年前のものとはいえ、日本語で詳しく書かれた伝記としては最新の部類のようなので、そういう点でもオススメ。