ひのひなどりから

主に宝塚について。それ以外のことも書くかもしれません。

雪組公演fff 初見&脚本読了後時点での解釈と疑問点

fff、大劇場千秋楽LIVE配信で初観劇しましたが、魂で感じたというか・・・アドレナリンとドーパミンがドバドバ分泌されるような舞台でした。

ルートヴィヒから放たれる凄みに圧倒され、謎の女に惹き込まれ、舞台に息づく存在たちに心寄せ、気付けば息を止めて見入ることを一時間半の間に何度も繰り返していました。

 

そして魂で感じたとはいえ、色々調べて考えたい部分も盛り沢山でした。
既にネットでちょいちょいとは調べてはしまいましたが、
本格的に情報を仕入れる前に、現段階での解釈を残しておこうと思います。
第一印象は大事。 

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謎の女≒人類の不幸≒運命の恋人

「あなたの想像の生き物」と語る一方で「みんなのところにいた」彼女。

彼女の本質的な正体は『人類の不幸』であって、
ルイの魂を通して見える姿が『謎の女』であり、
ルイだけの『運命の恋人』なのだと解釈しています。

『謎の女』と『運命の恋人』は狭義でイコールだけど、
『人類の不幸』は狭義では異なり、広義ではイコールというイメージ。

だからルイが『運命』と名付けた後も、モーツァルトは彼女を『不幸』と呼ぶ。
(「運命と一緒になって喜びを歌ってる」だと伝わりづらいという理由もあると思いますが)

 

父に苦しめられていた「不幸の記憶」でルイに見えていた『謎の女』は、
ブロイニング家に迎え入れられる「救済の記憶」で見えなくなり、
代わりに小さな炎が灯もる。
その後も『人類の不幸』はずっと存在しているけれど、
『謎の女』としてルイに見えるのは、ルイに降りかかる不幸が色濃くなった時だけなのでしょう。

 

そして、他の人にはどんな姿であれ『人類の不幸』が見えていないとすると、
ルイにだけ見える理由は「不幸だから」というだけでなく、
「音楽で(不幸から)皆を救う」という大それた執念を持っていたからこそ、
誰よりも『人類の不幸』を見ようとしていたからなのかなと思います。

そうして見えた『人類の不幸』は、
不幸そのものでありながらルイを不幸から遠ざけようとする。
ボンに帰らせようとしたり、過激な発言を止めようとしたり、イギリスに行こうと言ったり。そして人生を終わらせることで苦しみから救おうとする。
それは彼女が「不幸」を「憎んで恐れて逃げ惑う」人間の声から生まれた故なのでしょう。
彼女の存在は、彼女を忌避する感情によって生まれたわけです。
『人類の不幸』そのものでありながら、不幸を生みたいわけではなく、
むしろ不幸を忌避する感情も彼女の構成要素に含まれている。

補足:
彼女は『人類の不幸』そのものだとすると、「嘆く声が私を産む」前にそもそも不幸が存在しているのでは?と若干こんがらがりましたが、考え方としては2つ。

①一人ひとりの嘆きが積み重なって産まれたのが『人類の不幸』である。
②そもそも「不幸」の中身(戦死、子供の死など)はただの事象であり、それを不幸とみなすのは人間の心でしかないため、『人類の不幸』は人間の感情を通してしか産まれ得ない
ちょっと②は考えすぎな気もしますが、強ち間違ってもいないような。

そんな彼女をルイが受け入れて、慈しみ愛することで、
今を生きる人々に留まらず、『人類の不幸』ごと救い上げる歓喜の歌が生まれた。

ナウオンで真彩ちゃんが「産まれたての赤ちゃんみたいな気持ち」と言っていましたが、
忌避の感情によって産まれた『人類の不幸』が、
それと相反する感情である受容・慈愛に包まれたことで
『運命の恋人』に生まれ変わった、と考えると、まさにそんな感覚なのかなと思いました。

 

ちなみに、ナポレオンが皇帝に即位するくだりでまでは
ルイ(並びに人間を)を嘲笑うような態度が多いですが、これは
『人類の不幸』である自分に、たかだか一人の人間が立ち向かうなんて」という立ち位置によるものと思っています。

 

ところで、ルイに用事を押し付けられたあたりから人間的な振る舞いが見られるようになります。
トップコンビらしい(?)絡みが欲しかったというメタ的な理由もあると思いますが(笑)、
この頃はルイが『不幸』を愛しはしないまでも、
常に自分と共にあるものとして受け入れて生きていたから
なのでしょう。
『恋人』まではいかなくても「知り合い」くらいにまではなれていたというか。
それをルイは小間使いのように扱うわけですが(笑)、
受け入れてもらえた彼女は、きっと少し嬉しかったんだろうなと。
そしてルイの不屈の精神を認めて、”死”以外の方法でこれ以上の不幸から遠ざけようとするのかなと。

ルイ的に「可愛い」容姿だったのは、
不幸が可愛いものに思えるくらいには受け入れていたからなのか、
潜在的に救いたい、愛すべき相手だったからなのか、
単に好みが反映されただけなのか(笑)

ピンクの衣装はルイの好みとしか思えないんですけど、どうしようあれにも深い意味があったらw
家事が苦手だったのは、まぁそういうことには縁のない存在だからですかね。 

疑問点

  • 「もうひとりのあなたとも知らず」という歌詞
    人類の不幸が人間を形作る、というのは感覚的に分かるけど、
    「もうひとりの自分」と言われるとちょっと違う気がする。
    その表現に至るプロセスがあるのか?
  • 脚本の「ルートヴィヒは運命に勝つ。」という一文
    雪原で「不幸に敗北するか?それとも不幸に戦いを挑むか?それとも…」と言い残してナポレオンは息絶えます。
    この最後の「それとも…」に対するルイの答えが”不幸を受け入れて愛すること”だったのだと観劇時は思っていたので、脚本に「勝つ」という言葉があって??となりました。
    普通に”受け入れ愛することこそが勝利すること”という解釈で良いのかなぁ。
  • ピンクのフリフリ衣装
    どうしようあれに深い理由があったら(笑)

 

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雪原~夢のシンフォニー

たかがミュージシャンでありながら「人類の勝利」を目指していたルイを、
将軍・皇帝である英雄ナポレオンと同じ土俵で対話させるためのシーン。
「お前はモテたじゃないか、腹の立つ」などというルイの人間くさい本音が、
この場での二人がただの対等な人間同士であることを強調させます。

 

ロールヘンの死によって最後の灯火が消えたとき、
失望し憎んでいたはずのナポレオンがルイの意識の中に現れる。

失望したとしても、若い頃から影響を受けてきたナポレオンはずっとルイの根本に居続けたのでしょうし、
深層意識には強烈な憧れ(と嫉妬)を抱き続けてきたことが伺えます。

基本的にはルイの頭の中の出来事とはいえ、ヨーロッパ連合などルイにとって初耳な話も出てくるので、
『謎の女』が、セントヘレナ島で生を終えたナポレオンの魂を運んできたのかなと思っています。

そして対等に対話し、ナポレオンの真意を知り、再び「我が友」と呼ぶ存在になる。

 

ナポレオンの戦術とベートーヴェンの音楽は、共通して
芸術的に美しく、人類に大きな力を与えるものだということが、
雪原の大軍団で表現されているのかなと思います。

私は戦術は全く知識がないので分かりませんが、
音楽に関してはかなり頑張っていた時期があり、
何が最も理にかなっているか模索する楽しみ、実現する喜びというのは感覚的に分かります。
というか何に関しても楽しいよねそういうの。

 

疑問点

  • ナポレオンの「苦しむために生きている」という言葉
    「生きることは苦しみ」は分かりますが、苦しむことを目的に生きてるわけじゃないよなぁという違和感。
    ただ、それに対するルイの「幸せになりたかった」という吐露からの歓喜の歌に繋がるので、ここは違和感を持って正解なのかもしれない。
  • 「隊列を組んで倍、また倍と増えて・・・」といった戦術の話
    戦術について何も知らないので調べてみたい。
    戦術書って昔はそれこそ実用目的で作られてたみたいですけど、今も残ってて読めるんですかね…?
    あと、世界の全ては数で説明できる、的な考え方があるとチラッとお見かけしたのでそこから来てるのかな。
  • カント!
    何でそこでそれ言わせた!?読むわ!!

 

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ウェルテルとロッテの役割

諏訪さきさん推しなもので、観劇前に下記の「若きヴェルター(ウェルテル)の悩み」は読みました。

www.shueisha.co.jp

 

ウェルテル効果という言葉が出来るほど、当時ウェルテルに倣って自殺する若者が多発したそうですが、
謎の女の導きでルイの前にもウェルテルが現れ、ロッテへと導き、
ルイもウェルテルになる(=自死を選ぶ)のか、という表現がなされます。
ここのダンス素敵でしたね・・・(突然の感想)

 

小説の訳者解説で、ロッテについて
死にゆく人々に付き添う女性という役割を繰り返す」
「『(生の)限界』の在り処を指し示しつつ誘いかける仮象
と表現されていたのが印象的でした。
(作中で、ロッテは自身の母親も含め、病気などで死にゆく人々に何度も付き添っています。)

幻想シーンにおいて、妖しい微笑みでルイにピストルを手渡す彼女は、
まさにその仮象としてのロッテだと感じました。

 

ルイの希死念慮は「ハイリゲンシュタットの遺書」で捨て去られたように感じます。(史実的にもそういう見方が一般的なのかな?)

戦勝記念コンサートで失態を晒した後の「過去の幻影」でも
ウェルテルとロッテが目立つ所にいたと記憶していますが、
最後に残ったヨハンや少年ルートヴィヒの「死んじまえ」という叫びが示すように
再び希死念慮が頭をもたげてきたからなのか、
あるいは「あの時終わらせていれば良かったのに」という後悔なのか。

 

ここからは小説との比較なので蛇足ですが、ウェルテルが朗読しているオシアンの歌について。
舞台では「哀しくもむつみ合いつつ彷徨い行くなり」という一文で朗読が止まり、
感極まって抱擁します。
が、小説ではここでロッテが泣き出してしまった後、もう一節ウェルテルが朗読して二人が抱き合うんですよね。
その眼は辺りの野を見回し私を探すだろう、そして見つけられないだろう」というやつ。

何故わざわざ途中を抜き出したんだろう?と思ったんですが、
その眼は辺りの野を見回し~」の一節は、これから自殺するつもりのウェルテルにだけ刺さっている内容なんですよね、多分。
だから、そこだけ抜き出すとロッテが胸を打たれているのが不自然になってしまうのかなと。

哀しくもむつみ合いつつ~」までは、朗読の中の登場人物たちに
自分たちを重ね合わせて二人ともが感極まってしまう内容だったので、
あえてこちらにしたのかなと思いました。

あと、「哀しくもむつみ合いつつ彷徨い行くなり」という一文だけで、
二人が自分たちを歌に重ね合わせていることがうっすら伝わる気がします。

まぁ小説でもここは特別難解で私には理解しきれなかったんですけどね!!

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ロールヘンの役割

ロールヘンの死が、ルイの最後の灯火を消し去ります。
それほどルイにとって特別で大切な人だった。

生命を産んで自らは死へと旅立つロールヘンは、
死にゆく人々に付き添うロッテの対称の存在として描かれているのかなと思いました。何故ルイはウェルテルにならずに済んだのか。
それは、出会ったのがロッテではなくロールヘンだったから

ロッテに手渡されたピストルを幼き日の自分に向けた時、
目の前に現れたのがロールヘンだったのも、その暗喩のように思えます。

 

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第一印象と言いつつそこそこ長くなってしまった…w

あとは

あたりも色々知りたいですね。。
マイ初日までにどこまで調べられるやら…
そもそもチケットが取れるのか…

 

とにかく無事に公演が出来ることを祈りつつ、
更にこの公演を楽しむ準備をしておきたいと思います!